みなさんへのメッセージ~理事長対談~
対談4モンベルグループ代表・登山家:辰野 勇氏 自分の「好き」へ進み続けること、それは未来の糧となる。

様々な分野の著名人をお迎えして、みなさんにメッセージを贈っていただく理事長奥田の対談シリーズ第4弾。
今回お話いただいたのは、世界で愛されるアウトドア用品店「mont・bell(モンベル)」をはじめ、様々な事業を手がけるモンベルグループの代表・辰野 勇氏です。
山が大好きで、中学時代から独学で登山を学び、世界で最も登頂が難しいとされる山の一つ・アイガー北壁に登った2人目の日本人となった登山家でもある辰野氏。
ずっと山に関わって生きていきたいという想いで、たった一人で起業した会社は現在、グループとして社員1,200人以上を抱える大企業へ成長しています。
「Do what you like」「Like what you do」
辰野氏の「夢」に対する考え方には、未来を力強く歩むヒントが詰まっています。
夢への想いが、今に必要なことを教えてくれた。
奥田
辰野さんは小さい頃から山が好きで、経営者になる前からずっと、登山家として活動されているとお聞きしました。山に興味をもったのは、どういうきっかけだったのでしょうか?
辰野
それは私の幼少期から、順を追って話していきますね。
実は私は虚弱体質で、すごく身体が弱かったんです。
私は大阪出身で、堺市にある小学校に通っていたんですが、その小学校では金剛山(大阪府と奈良県の境にある山。標高1,125m)へ冬の登山に行く行事がありました。ところが「キミは身体が弱いから、居残っていなさい」と先生に言われてしまって、連れて行ってもらえなかったんです。
当時の日本は登山ブームでした。気は優しくて力持ちな山男。登山家の人たちは本当にかっこよくて、憧れだったんですよね。
中学に入った頃、小学校のときに行けなかった金剛山に、近所の子どもたちで遊びに行く機会がやってきました。身体が少し強くなり、登山もできるようになった私は、そこで初めて山を体験して。木々の間を散策したり、友だちとキャンプしたりするのはすごく楽しくて、私はすっかり山にハマってしまいました。
そして高校1年生のとき、夢が見つかる出会いがあったんです。
国語の教科書に、ハインリッヒ・ハラーというオーストリアの登山家が書いた『白い蜘蛛』という本の一節が載っていました。
それが、当時ヨーロッパアルプスで三大北壁と呼ばれた高山、その中でも一番登頂が難しいとされていたアイガー北壁(スイスの山。標高3,970m)への、初登攀記(はつとはんき:人類で初めてその山を登った時の自伝録)だったんです。
奥田
その本との出会いに、将来登山家になろうと決めるような魅力が詰まっていた、ということでしょうか?
辰野
「山」とずっと関わって生きていこう、と決めたのは、この高校のときでした。
私は今74歳ですから、高校生の頃というとかなり前です。実は1936年に開催されたベルリンオリンピックでは、アイガー北壁を初めて登り切ったクライマーには金メダルを授与するというものがありました。そして、数多くの登山家たちが競って登り、失敗して命を落としていったんです。
先のハラーがアイガー北壁登頂を達成したのは、その2年後の話でした。当時、難攻不落の山を登るというのは、国威高揚をかけた挑戦だったんですね。
しかし、そんな登山家たちの背景は後で知ったことで、高校生だった私は純粋に「かっこいいな…!」「登りたいな…!」と思いました。
そのときから「アイガー北壁を登りたい」という夢と、「将来は山に関係した仕事に就きたい」という希望をもち始めたんです。
仕事に関してのイメージは何となく、登山用具の専門店を経営して、お客さんを連れて山に行ったり、あとは山に喫茶店を作るのもいいな、と。そういう、山が好きな人なら誰もが一度は憧れるイメージをしていたわけです。
奥田
高校生のときに見つけた夢、ワクワクする気持ち……。すごく想いが伝わってきます。聞くところによると、最初から経営者を目指す方向で、お仕事を考えてらしたんですね?
辰野
実は僕の両親はお寿司屋さんをやっていて、自営業でした。だからか、サラリーマンになると考えたことはありませんでしたね。「仕事というのは、自分でやるもんだ」、両親の仕事をずっと近くで見てきたからか、そういう感覚になったんだと思います。
私は夢を見つけて以来、一念発起して山登りを練習し始めました。でも完全に独学、見よう見まねです。日本の色んな山へ行ってトレーニングしました。登山道具は自作して、トライ&エラーを繰り返して……。今振り返ってみると、かなり無茶なこともしていましたね。それでも着々と技術を身につけて、アイガー北壁登頂の夢を目指し続けました。
しかしながら実は、夢の実現に向けて最初にやったことは、貯金だったんです。いくら夢があってもヨーロッパに行く資金がなきゃダメですからね。
奥田
なるほど、堅実ですね。見つけた夢に対して、実現には何が必要なのか考え、今からできることに取り組む。素晴らしい行動力です。
辰野
しかし、高校1年生のときにそんな夢を持ってしまったので、大学に行く理由が無くなってしまったんですよね。「4年間もったいないじゃないか!!」って。
大学受験の日にはちょっとしたエピソードがありましてね。僕は信州大学を受けると嘘をついて、受験日当日、信州大学からちょっと方向を変えて北アルプス(飛騨山脈のこと)に登りに行っちゃったんですよ。それで真っ黒に日焼けして帰って、 父に向かって「悪い、落ちた!」って報告しました。落ちるも何も試験を受けてないのにね。
で、父に「どうするんだ」と訊かれて。でもそのときちゃっかり、就職先を決めてたんです。
奥田
すごい!用意周到じゃないですか。最初は一体、どんなお仕事に就かれたんですか?
辰野
名古屋のスポーツ用品店に住み込みで働きました。
働き始めて1年間、忙しい毎日を過ごしましたね。ただある日、店長に「山登りは怪我もしやすいし、危ないからやめとけ」なんて言われたんです。それはちょっと本末転倒やぞ、と。だって山登りのために今頑張っているんですからね。そうして、最初の職場は辞めてしまいました。
次に勤めたのは大阪の山道具専門店。そこでは4~5年お世話になり、店長にもしてもらいました。そして21歳のときに、ついに貯金が目標額まで届いたんです!
奥田
21歳で、夢に手が届いたんですね!それにしても16歳で夢を見つけて5年後、準備してきたおかげで本当に実現できたとは、とても良い話です。
当時でスイスへ行くとなると、船ですよね?どれぐらいかかったんでしょうか。
辰野
大阪から横浜へ出て、横浜からロシアまで船で3日間です。そこからシベリア鉄道に乗ってスイスを目指しました。今なら飛行機ですぐに行けるところを、ですよ。
それから渡航費は25万円ほどでした。私の初任給が月収9,800円だった時代ですから、とんでもない大金でしたよ。
奥田
本当にすごい……。もともと身体の弱かった少年が、「好き」を追いかける心の強さを糧にして、どんどん前に進んでいく。何とも壮大な冒険ですね。