大阪国際中学校高等学校

作曲家:新実徳英氏

対談7

曲がりくねって進んでも、
好きだから努力できる

作曲家:新実徳英氏

様々な分野の著名人をお迎えして、みなさんにメッセージを贈っていただく理事長奥田の対談シリーズ第7弾。
お話いただいたのは、大阪国際中学校高等学校の校歌を作ってくださった作曲家の新実徳英氏です。
新実氏は管弦楽や室内楽、合唱作品をはじめとして、校歌もまた数多く作曲されています。現代音楽の作曲家としてはもちろん、本も上梓されるなど多方面でご活躍中ですが、子どものころから音楽家を目指していたのかと思いきや、実は東京大学工学部を卒業後に東京藝術大学に進学したという、驚きの経歴の持ち主。
今回は、我が校の校歌に込められた想いや校歌を作曲するときに大事にしていること、東大から藝大への転身の経緯、そして教育への想いを語っていただきました。

校歌で自由に楽しく遊び、みなさんで校歌を育ててください。

奥田

先生に作曲していただいた我が校の校歌ですが、校歌にしては少し速めのテンポですが、これは何か意図的に考えられたのですか?

新実

それはあります。僕の母校もそうですが、校歌って真面目で堅苦しくっていう印象がありますよね。それを避けようと思いました。ちょっとポップ感覚というか、今の時代の子どもたちが、大いにノッて楽しく歌える。場合によっては遊んでいるときにも歌えるような校歌を作りたいと思ったんですね。
今までの依頼で一番印象的だったのが、ある小学校の校長先生。彼がこう言うんですよ「子どもたちが学校の行き帰りに楽しく歌えるような校歌を作ってください」と。とにかく行き帰りみんなが楽しく歌う、これはとてもいい考えだと思いました。それから校歌をいくつも書いていますが、やっぱり楽しいことが大事だなと。
大阪国際学園の校歌は楽しい校歌で、アレンジしやすいパートがあるんです。例えば、指定とは別の楽器を鳴らしたりとか、あるいは掛け声「ランララー」と入れるとか、色んな遊びの要素がある。じゃあ私たちはまっすぐ歌うけど、君たちはここで合いの手を入れる役割とかね。それを発見してほしいわけです。音楽の先生には「お好きなようにそういうのを見つけて、みんなで遊べるようにしてください」とお話しました。

奥田

音楽の世界、そばで見ていると、勝手に触ったりするのはダメな感じがしますが。

新実

そういう面はありますが、校歌っていうのは僕が差し上げたものですから、著作権みたいなのだけは僕が持っているんですけれども、かなり自由にやってもらって構わないと思っています。

奥田

そういう気持ちがこの校歌に込められているのですね。

新実

そうです。だから大阪国際学園がこの校歌を育てる、歌い方を育てる、使い方を育てる、そして歌い継がれていく、それが僕の考える理想ですね。

奥田

そうなんですか。

新実

誰が作っても角が立つので。

奥田

(笑)最初に作っておけばよかったんでしょうけど。

新実

そうすると明治時代に作らないといけない。

奥田

それは残念。

新実

だから誰も作ろうと言わないですよ。選びようがないですよね。誰が選ぶのよ、と。

奥田

確かに。

新実

それはともかくとして、校歌を書くということに、僕はプレッシャーを勝手に持つんです。校歌は子どもたちにとって選択肢がないですよね。これしかない。だから、やっぱり僕が「これは最高だ」というものを出したいと思っていつも書くんです。僕はNコン(NHK合唱コンクール)の課題曲を今年書きましたが、これも選択肢がない。うちの学校はこの曲嫌だというわけにはいかないんですよ。そんなふうに選択肢がない場合、できるだけ最高のものを自分で作りたい。
例えば、NHK交響楽団からの依頼でオーケストラ曲をかくとき、もちろんちゃんとしたものを書きますが、もし失敗したって向こうは演奏しない選択ができるわけです。でも、校歌はちがう。だから選択肢がないときに何をするかというのは、大きな責任があると思います。
学校の先生もそういう意味では大変ですね。僕はよく学校の合唱部のことを例に出すんですが、例えば子どもたちに合唱部の先生を選択することはできないですよね。町の合唱団だったら、あんな人嫌だから私辞めるわ、あるいは交渉してあなた辞めてくださいってこともできるけど、学校現場ではそうはいかない。だからやっぱり何か与えようとする側はすごく責任重大だなと。

奥田

なるほど。そういう意味で先生ご自身、作品に対して責任の意識を強くお持ちになって活動されてきたんですね。

新実

そうですね。その中で、色んな人との出会いとか、色んなものとの出会いとかもあって。人は自分一人じゃ育たないですね。

奥田

音楽も、勉強も一人でパッとできる人もいるし、自分の世界だけでいきたい人もいる。しかし、先生は、周りの人たちと一緒にやるという音楽家としてずっと歩んでこられたわけなんですね。

“出口”が見つからず苦労した芸大時代。

奥田理事長
本学理事長:奥田

奥田

先生は、東京大学工学部、いわば日本の大学の最高峰を出られているんですけれども、その時までは機械系がお好きだったんですか?

新実

僕は子どもの頃にバイオリンを習い始めて小学校5年生までやったんです。中学校ですごく聴くのが好きになって、高校は合唱部に入って、自分も指揮したり、アレンジしたりしていました。その頃から音楽が大好きだったんですけど、家業が機械を売る商売をやっていまして、僕は3人兄弟の長男で、跡継ぎということで親父は期待してたわけですよ。それで東大の工学部に行ったんですが、3年生のときに東大闘争が起こり、大学が半年以上封鎖。その間に音楽にどんどん傾斜していきまして(笑)。これはもう工学部やめて音大に行き直そうと決心しちゃったんです。それで、それを親父に話したら「100万円やるからお前なんか勘当だ」と言われました。でも、100万円じゃ1年食べられないので、もう1回話しに行ったら、「東大の卒業証書さえ持ってきたら芸大行ってる間は面倒見るぞ」と言ってくれたんですよ。「しめた」と、それで堂々とその道に進むことにしたんです。ただ周りからは芸大の試験を受けて1回落ちたらもうあきらめなさいと言われてましたので、結構強いプレッシャーでしたね。でも運よく入れました。

奥田

すごいですね。それじゃあ音楽は、最初こそご両親にすすめられたんでしょうけど、人生の友達という感覚で、別にそれで身を立ててというプレッシャーはなかったんですね。

新実

それは全然なかったです。バイオリンは親父に習わされたんですけど、レッスンにはいつも母がついてきましたね。その頃はレコードがSPレコードで、ショートプレイですよね。

奥田

懐かしいですね。SPとLP。

新実

親父がそれをたくさん持っていて、聴いて遊んだり、踊ったりとか。音楽好きは、そういったところからですね。

奥田

先ほど、校歌を楽しくどんどん使ってくださいとおっしゃいましたが、先生自身の音楽のスタイルは楽しむという部分が大きいのですか。

新実

親基本は楽しむ、ですよね。実際に、僕は今もピアノとバイオリンを毎日少しだけ練習しています。僕の課題はいつもバッハやショパンなんですけど、弾いてると頭の中の脳細胞がまっすぐ並ぶというか、整うような気がして、だからいつも「自分で弾く」ことは必ずするようにしてますね。

奥田

先生は依頼を受けて作曲をされるときに、依頼者の色んな想いというのをカタチ、音楽にされますけど、それこそ有名な方々、ショパンとかバッハというのはそのときの自分の想いをカタチにしたということなんでしょうか。

新実

彼らのような天才になると、いっぱい出てくるから書かざるを得ないんですね。頼まれても頼まれなくても書いちゃうんです。
その一番すごい例が「大バッハ」と呼ばれるヨハン・セバスチャン・バッハですけれど、平均律ピアノ曲集という、人類の宝と言ってもいいこの曲集の第1巻、第2巻を、彼は全然頼まれないで書いてるんですね。これは後に続く音楽の子どもたち、あるいは作曲家たちへの教育書なんですが、カンタータなどの締め切りをいっぱい抱えながら、自主的にそういうものを書いて残しているんです。モーツアルトもどんどん天から音が降ってくるので、もう片っ端からそれを書いてる。ちなみにフィガロの結婚の序曲は7~8分ありますが、一晩で書けちゃうという人なんですね。

奥田

(笑)そうなんですね。

新実

信じられないですけどね。あとシューベルトもすごいものがあって。わずか31歳で亡くなりますが、晩年の2年間はものすごい量を書いてるんです。死が待っているという意識ではないと思うんですけど、どんどんわいてきちゃう。次から次に音がきちゃうから書く。
我々も調子がいいときは音がきちゃうから書いていますが、まあ頼まれて書くことが多いので、そうするとさっきおっしゃったようにどういう方が頼んできたかというのは感じたり気にしたりはします。

奥田

「やりがい」については先生自身としてはいかがですか。

新実

僕はもう、やりたいことをやりたくてやってきたので、まあそれでいいかなと。ポップスやればよかったかなあとかそういうことは考えたことないですね。

奥田

転換期とかはあったんですか。

新実

高校生の頃はポップスを聴いてたし、ジャズも聴いたし、色々クラシックも聴いたし、でも自分はこういうジャンルで仕事をしたいというのはなんとなくありました。だからいわゆる現代音楽の方に僕は行ったわけですけどね。現代音楽を書こうという意識はないけど、たまたまそういう方向だったということですね。

奥田

苦労された時期もあろうかと思うのですが、やりがいであるとか、ご自身を叱咤激励(しったげきれい:励まし奮い立たせること)していたお気持ちとかは何かあったんですか。

新実

20代後半が苦しい時期だったですかね。芸大の最初の4年間かな。大学院行って自分のやりたいことが見つかるようになるまでは苦しかった。
作曲の学生によく話す話があります。僕も学生たちも、同じように、何か書きたいものが中にあふれてあるはずなんです。ところがなかなか出口が見つからない場合がある。湖に水はいっぱいたまっているんだけど、出口が無いと川は流れていかないじゃないですか。自分なりの出口を見つけることが必要で、それは一つじゃない。そして一つ見つかると次がまた見つかる。すると、それがだんだんと自分の音楽のカタチになっていくわけです。芸術でもなんでもそうですけど、最初は何かのモノマネから始まりますよね。だけどモノマネはいつまでたってもモノマネなんです。だから自分の中から何かが出ていくその出口を上手に見つけなさい、これが見つかったらもうやっていけますよという話をするんです。僕もその出口が見つからなくて苦労したのが芸大の最初の4年間ですね。

奥田

僕の出口が見つかったのは多分47、8歳かなあ。

新実

それが俗にいう「四十にして惑わず」ということですね。もちろん、その時期は人によるんでしょうけど。僕自身はそういうわけで、やっと30歳になったくらいに道がわかった。けれども、天才たちは、ショパンなんか16歳、メンデルスゾーンなんかもそうですけど、かなり早い段階で自分の出口をパッと見つけている。それは、すごいことですね。

奥田

そういう人材が当時出てきたのは、家庭教育なんですか。それともまた別の何か。

新実

家庭教育は大きいと思うし、バッハなんかは血筋ですね。何代にもわたってそういう血筋があって、その中で一番巨大な存在としてバッハがいる。でも親が音楽家じゃないけど、ドビュッシーのような天才が生まれてくることもあって。それは天の配剤ですよね。家系と関係なく、文学でも絵画でもそういう人が突然変異のように現れるということはありますよね。

奥田

なるほど。

「好きなもの」から、世界を広げていける。

作曲家:新実徳英氏
作曲家:新実徳英氏

新実

子どもに一番大事にしてほしいのは、自分の好きなものを見つけること。大好きなものを見つける、そうしたらそれが「生きがい」となりますよね。子どもが自殺したりするような話を聞くと本当に悲しいんですけれど、学校で頑張んなきゃだめよということを親が言わないでほしいです。スケートでもいいしバドミントンでもいいし、走ることだっていいし、音楽だっていい。あるいは理科とか算数とか、勉強が好きだという場合もあると思うけど、机で学ぶことじゃなくてもいいので何か自分が本当に好きなものを見つけてほしいなと思います。

奥田

なるほど。

新実

音楽の世界にも一本道でずっと来れちゃう人がいるんですよ。子どものころからピアノが上手くて、まっすぐ音楽家になってという人。でも一方で僕のように、曲がりくねって進んでいく奴もいるわけです。そういう人は、曲がりくねってきた分努力をするということなんだけど、でも好きだから努力できる。だからやっぱり好きなものを見つけることは、大切です。仮にそれが職業にならなくても、生きがいになります。そうしたら死んだりすることなく、生きていけると思うんですよね。

奥田

今まで対談された方全員、好きなことのためならいくらでも努力できると。みなさん同じようにおっしゃってますね。

新実

でしょうね。やっぱり「好きこそものの上手なれ」でね。

奥田

確かに、与えられた知識を言われるがままやるだけだと、どこかで折れるかもしれないし、一本道だと思っている子ほどやっぱり弱かったりという事もあります。結果、さっき先生がおっしゃったように一番大事な命であったりとか、健康というものを失ってしまうこともある。そういう、取り返しがつかなくなってしまうということを我々も悲しいなと思っています。

新実

まず、好きなものを見つけるというのが大前提。そのうえで、好きなものを通じてあらゆる方向で自らを成長させていくことが大切だと思うんですよ。文武両道って言うじゃないですか。文武の文は学問で、武というのは現代ではスポーツになると思うんですけど、音楽も文武両道の武の中に入っていると思います。だから音楽を好きな子はある種の振幅がある。数学を勉強するときと音楽やるときは頭の使い方が全然違いますよね。そういう両端があると、すごく活性化されると思うんですよ。
僕の母校ではクラブ活動全員加入が原則だったんですが、幽霊部員で学校が終わるとすぐ塾へ行くという勉強の仕方を3年間やった人がいてね。彼は全然伸びしろがないんですね。だから、バスケット部のキャプテンやってすごい活躍したなんて奴が、ほぼ最下位から、3年生になるといきなり上位にダーンっとあがってきて、東大へ一緒に行ったりなんてことが起こるわけです。ですから、できるなら色んなことに興味を持ってほしい。好奇心、大事ですよね。

奥田

そういう数値を測れればいいんですけど、測れないから保護者にもなかなか伝えにくい部分がありますね。けれど、やっぱり人間なんで、気持ちが動く、いわゆる感性というのは大事だと思います。運動をしたり音楽を聴いたり、芸術に触れたりとか、自分が本当に生きていることを感じられるような、感性を揺さぶるようなものを片一方で持っているからこそ、体や頭が柔軟に動いて知識が入ってくるし、得た知識も応用できるんじゃないかなって。

新実

その基本がやっぱり「好きなものを見つける」ことですね。好きなものを中心に、「じゃあこれどうなってるんだろうか」と広げていくことができる。そういうところに本物の学びがある気がします。つまり「知りたい」と思うようになったらしめたものですよね。
蓼科は鹿山村の仲間に数学の先生がいるんですよ。京都大学出身で大阪大学の先生の後、今は明治大学の教授をされている人なんですけど。「数学っていったい何をやるんだろう」という話をしたら、数学の成績がいい大学生が研究者になれるわけじゃないって。彼自身はむしろ、ちょっと苦手だったそうです。大事なのは、与えられた問題を解くことじゃなくて、自分で何をやろうかという課題を見つける。テーマを見つける。これが大事なんですと。
昔、外山滋比古さん(日本の英文学者・評論家でエッセイストでもある)がエッセイに書いてましたけど、「大学生は教えれば教えるほど頭が悪くなる」。つまり自分で考えなくなる。大学4年生は卒論書かなきゃいけないけど、教えすぎると自分でテーマを見つけられない。つまり自主性がなくなっているわけですね。 ここが教育の難しいところだなと思います。
その点、この学校は図書館に行こうとしなくても廊下を歩いていればたくさん本があるじゃないですか。そうするとね、なんかのときにふと「これなんだろう」と思いますよね。理科棟の壁やガラスに素材の化学記号が書かれているのも刺激的ですね。Siってなんだ?ケイ素ってなんだ?そう思い始めたらしめたものです。そういう子どもの自発性を刺激するしかけがいっぱいあって素晴らしいと思いました。

奥田

僕が衝撃を受けたのは、生徒と行った北海道への修学旅行。熊の生態を、地元の人と一緒に森の中に入って色々と教えてもらうんですね。宿舎に戻ってからその人が「質問ある人」って言ったら誰も手を挙げなかったんですよ。手を挙げる勇気がなかったのか、何も感じなかったのか、というのがすごく疑問で。

新実

日本人って割とそうなんですよ。バカなことを質問していると思われたくないという意識がまず働くんです。

奥田

だけど、僕自身はそのときいくつか疑問がわきました。この熊はなんでこんなところに跡をつけたんだろうとか。次々に疑問が思い浮かぶんです。

新実

そういうチャンネルがふさがれているのがこれまでの教育なんですよね。教科書をマスターしないと受験がうまくいかないという発想がある。だから勉強づけにする。僕の高校も受験校だったんで、日本史の授業なんか詰め込みでね、なんでそうなったのかという話が全然出ないんです。なんで鎌倉幕府ができたんだろう、いったい武士っていう集団はどこから現れたんだろう、なんで貴族と対立するんだろう。そういう「なぜだろう、なぜかしら」をね、ゆっくり考えさせてくれない。だから熊の話だって本当なら「はい、質問!なんで熊が北海道にいるんですか?」と、そこから始まりますよね。なんで熊がそこにいるんだろう、そうしたら今度日本列島の歴史の問題になって、あるいは日本列島が大陸とつながっていたときの話になる。そういうふうに話がふくらんでいくんですよ。

奥田

まさに知識が広がりますよね。地理や歴史、科学、色々なところに広がっていくのが、「知りたい」につながるんじゃないかと思います。新しい学校のコンセプトにしているのが「自学自習」。自分たちで学びたいことを学んでいく。先生方がなんでもかんでも「これやれ、あれやれ」と言うのはできるだけ止める方向にしたいんです。

新実

それは素晴らしい。楽しみですね。